Hatena::Groupoval-plan

思考地図:OVALPLAN このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-08-25

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 - 思考地図:OVALPLAN

「ⅩⅡ 社会的要素の上方、もしくは下方への解放は、一方では上に向かっての同一化(個人の集団への、集団の上位集団への同一化。その頂点は国民共同体=国家である)、他方では下に向かっての同一化(文化の自然への同一化、大人の子供を前にしての感情移入)により機能する。同じ同一化が、公的なものの私的なものへの関係においても働く(公的なものは上位のものとして知覚される──それは中央の権力を連想させるから──。しかしまた、公的なものの核心には私的なものが含まれている)。」

 

 「社会的要素の上方、もしくは下方への解放・・・」の前に「上下への解放」の前提となる(前項)「内指向」の日本文化について強く意識しておく必要があります。なぜなら、内指向は外との隔絶が前提にあり、(隣接)外部への解放ができないが故に上方と下方へのエネルギーとして放出される、という文脈があるからです。


 具体的な事例を1つ、、、。私が住む京都の街中は小学校区域単位での自治会としてまとまった活動をしているのですが、小学校というのは明治初頭に始まった学校制度と同時にできていった区域で、あくまでも教育行政区分上の境界だったのです。ですので、区域に住んでいる住民からすると、日常の駅や市場へのアクセスの方が小学校区域との関係よりは密接なわけです。すなわち、街全体の快適で安全なまちづくりを捉えると、小学校区域=自治会を超えて隣接する小学校区域=自治会と連携して捉えた方が合理的なのに、隣接との話し合いは一切行われず、昔からの区域にこだわった自治会運営というのが相変わらずおこなわれています。自治の参考となるのは隣接を超えた離れた場所の自治会活動が参考とされ、けっして隣接自治会が話し合うと言うことはされません。皆さんの周りでも似たようなケースは多くあると思います。


 ところがです、お上=行政からのアドバイスに対しては簡単に受け入れます。むしろ積極的に行政とは連絡を取り合う姿勢が見えます。また、内なる単位である町内会との連携もますます密接になっていきます。(「空間と日本文化」でも町内会の項目で、その内指向の事例として紹介されている)私の住む小学校は既に10年ほど前に統合合併のために廃校となり、今は近隣住民の自治連合会だけが残っているのですが、こどもがいた時よりも組織力が高まる傾向があります。廃校となった跡地利用(廃校という危機)に関しての意識の高まりが、内指向の求心力を高め、その結果として、けっして近隣との連携に向かうのではなく、お上=行政からの指導に従順に従う、という、本項の「上方下方への解放」が実践されたわけです。

 

 かように「内指向」は外(隣接)との交流ではなく、上部=行政=お上=公的な方向へと向かい挙げ句の果ては日本という大血縁関係を結んでいると。一方、下方=下位組織=年下=こどもへの手厚い指導とコミュニケーションが稠密になされ、阿吽の呼吸で一致団結して物事にあたる超効率型集団主義の日本文化が成立しているわけであります。


 競争原理主義の欧米諸国よりも物事の効率性という視点では日本型集団指向は有利だとのこと。日本という国が生まれて以来醸成してきた日本型の「内指向型集団主義」は、明治の開国、日清、日露、といった外部からの圧力に対しては圧倒的に有利に働きました。がしかし、「内指向」エネルギーが(内指向であるが故に)明文化されないままの阿吽の呼吸で太平洋戦争を促してしまい、さらに阿吽の政治であったがために戦争責任さえも阿吽の呼吸で不始末という始末を付けてしまった。その後もなんらその「内指向」を修正することのないまま今日に至る日本がそこに有ります。というのが、オギュスタン・ベルクが捉えた日本なのだと思います。


 そしてさらに「縁」という内指向を飛び越える(これまた西欧的なロジックには当てはまらない)日本的文化が、次なるⅩⅢ項で語られます。内に住む我ら日本人には大事な大事な「ご縁」なのではありますが、、、