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OVALPLAN20170924

連続講座「芸術は何処へ?」

マエストロの本音を聞く壮大な全9講座!!

第9回(最終回) 9月23日京都府立文化芸術会館ホール

パネルディスカッション

高階秀彌 山極寿一 岡田暁生 国分功一郎 猪木武徳 山本容子

進行:通崎睦美


1月から9回にわたり「芸術は何処へ?と題して、上記第9回の講師以外でも、青柳正規、楽吉左衛門、会田誠、井上道義、芳賀徹、片山九郎右衛門といった芸術と関わる人々が参加してディスカッションが繰り広げられた。


各回のディスカッションをダイジェストする力は無かったが、今回は最終回として上記の6名が一堂に会してディスカッションが繰り広げられ、想像以上の白熱したコメントが飛び交い、そして私にとっては「そうだったのか!」の納得の芸術とは?の回答も得たので、半日かけてまとめの1ページを書いてみた。


全体を通じて通底した「芸術は何処へ?」を私なりにダイジェストしてみると、、、

人類は感動の体験を誰かと共有したくて、持っている最高の技術を使って伝えようとしてきた。ラスコーの壁画は、その始まりだったのだろうし、地球上の様々な地域で紡ぎ出された「表現」は、感動を伝えよとした痕跡だったのだろう。やがて(近代)西欧においてはそれら表現は「芸術」という社会的価値感として扱われ、そこに個性を表現する芸術家を生み出していった。

しかし切磋琢磨した技術を使って表現する絵画や彫刻、音楽も、その技術の背景となるコード(約束事)の呪縛から脱出することはできないために、時間と空間を包摂する「感動体験」のほんの一部しか伝える事は出来ない、と言うジレンマが生まれていった。さらに現代は工業社会が生み出す産業的表現によって埋め尽くされ、個性のない均質世界となり、前衛たるべき個性表現も袋小路へと追い込まれてしまった。

さて、芸術は何処へ?

がこれまでの文脈で、

第9回のディスカッションは、添付資料を参照。

以下は私の個人的な感想。

●第3回と今回、山極寿一氏の講義を聴いて、この方が一番芸術を俯瞰的に捉えている、と思いました。当然と言えば当然なのですが、人類を超えてさらに祖先のゴリラの目線から、人類が言っている「芸術」とは、を俯瞰できるからなのでしょう。今回冒頭で「今回のメンバーで私は異質な存在!でも、だからこそ「芸術」について有用なコメントができると思う」と自分自身で述べられましたが、私の感想でも、最も芸術に対して俯瞰的で、科学的(さすが学者)で、歴史的な読み取りを提示された、と思います。「山極寿一の芸術論」が著述される可能性に期待したい。

今回スピーチの核

近世まで:芸術には個性無し

近代:芸術は個性表現の時代へ

現代:全ての物事が個性のない均質化世界になり、個性表現も極まってしまった

現代の情報化=データ化社会=均質性からの脱出が「芸術」の役割ではないか?

●音楽研究家岡田暁生氏は第4回に、フィリップ・ストレンジというジャズピアニストの演奏を通じて、ジャズが目差すオリジナルスタイル=個性について論を展開された。パトリシア・コパチンスカヤ、テオドール・クルレンティスといった、従来のクラシック音楽世界でもこれまでの枠組を壊して果敢に前衛に挑戦するミュージシャンを紹介した。

私も知らなかったクラシックの前衛をYouTubeを通じて、なるほど音楽の持つダイナミズムが、これまでの枠組=コードを外すことによって生み出すエネルギーを感じることができた。

今回の講演では、西欧音楽のドレミ音階コードに呪縛されているようでは、音楽芸術の行くへは限られる。そのコードは外していかなければならない、と自分自身のこれまでの呪縛からの脱出を宣言された姿に感銘した。

●高階秀彌氏はさすがの論客でした。西欧芸術だけかと思っていましたが、今回のまとめで古今東西芸術のジャンルは問いません、という博識を発揮された。

感動体験を人に伝える、その伝える方法として日本では「うつし」という技術の伝承技法として大事にされた。それは西欧における「コピー」ではない。「うつし」を通じて技術を繋いでいくことが芸術行為でもあった。

そこに見えない気持ちや感動を「うつし」とり伝えていく「つなぐ」が芸術の役割なのかも知れません。と、「芸術は何処へ?」全9回の講座を締めくくられました。

さすがでした。

そして、まさしくその「つなぐ」が、このブログやSNSによって広められている社会のプロトコル=作法となっていることに、なるほど!と思って会場を後にしました。