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2012-05-02

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-3 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-3 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-3 - 思考地図:OVALPLAN

 自然的なものの重視=偶然性へ=同格、類似、同時性が重視される日本では、ロジック型文章=主語述語、原因結果の直線的記述を拒否するために、今ここで書こうとしている「オギュスタンベルクを読む」という行為そのものを不成立とする力が常に働いている、のが日本的なる思考のモデルなのではないか、、、とか何とか言って終了しようとしている?(笑)と捉えられても仕方ないほど、結論へはつながらずひたすら分散し並行的なあれやこれやの考えがアワブクのようにわき上がる。オギュスタンベルクの苦労はいかほどであったろう、と察しながらも、日本人である私にはその分散していく思考の情況が手に取るように分かってきて、すこぶる愉快である。


 結果として日本には、まともなロジックが成立する素地はないことをつくづく思い知らされ、それだけに我が「思考地図」の四方並行展開的モデルが、いわゆる西欧的直線型ロジックとは異なる合意形成のための思考の地平となり得るのではないか、いや作り得るのではないだろうかと幼稚な野望を持ちつつあります。即ち、空間的、俯瞰的ロジックであり、人類共通の非線形論理構造としての「思考地図」なのです。

2012-04-15

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-2 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-2 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7-2 - 思考地図:OVALPLAN

f:id:OVALPLAN:20120415094245j:image

「主語述語もしくは原因結果的文章より、同格、類似による文章が好まれ、一本の糸でつながれた連続物よりはむしろ、不連続のものが、進行的同時性が歓迎される。」という記述の分かりやすい比較が、引用文献「ことばと空間」牧野成一1978東海大学出版会p15 に表図解がされています。


 日本語「僕は車を運転しません。」(否定辞)とことばの最後にならないと肯定と否定は分からない。

 英語「I do not drive a car.」と主語のすぐ後に動詞があり、結論が冒頭で分かるようになっている。

 こうしたことばの順序が、空間の配列においても類似的に見ることができる、と。

 日本の家では、玄関扉、玄関、(廊下を通って)客間もしくはリビング、ダイニング、キッチンと奥へと並ぶ。最近はスペースの有効利用と米国型のフレンドリーな人間関係が強くなり、ワンルーム型が増えてきているが、それでも大半の家では玄関というグレイゾーンを持たせているのは、日本の語順と似た中間にあいまいな「間」を持たせた関係モデルだと思える。(この「間」については次章で展開される予定)

 それにたいして米国では、玄関扉を開けるといきなりリビングからダイニング、キッチンまで見通せる。すなわち、扉を開くか開かない(奥を見せない)かで住人と客の関係は決定される、という即決型関係モデルで、主語と述語が接近している英語と同じモデルといえる。

 と、ことばと空間の文化比較の論文が紹介されている。


 つづく...

 (この7つめの結論は「空間」展開の要にあり、なかなかに深く面白い、が「しんどい」でもあります)

2012-04-07

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─7 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅶ 現象的与件はその内在的、且つ他に還元しえない論理の故に、主体がともすれば世界に押しつけようとする統合論理に優先する。従って自然的なものの重視は、偶然的なものの重視に結びつく。そこから、主語述語もしくは原因結果的文章より、同格、類似による文章が好まれ、一本の糸でつながれた連続物よりはむしろ、不連続のものが、進行的同時性が歓迎される。運動には違いない。しかしそれは、それぞれの情況(場面)が固有の同時性において自発的に現れ、数珠つなぎにされていくものとしての運動であり、一つの発端を一つの結末に結びつける運動ではない。そしてこれは、美のレベルでは「間」によって、言語のレベルでは言語化度合いの少なさによって、また都市計画のレベルでは、遠くまでの展望、直線配列、主軸大道路の拒否によって現れる。」


 物事は始まりがあり終わりがある。原因があり結果が導かれる。一つの方向性を持つ運動的思考のモデル。物事を事象として書き残す時、人に申し伝えるには、すべからく文字に頼り文章を綴るしかない。その場で周りの人に伝えるためにも言葉を発するしかない。そこでは概ね、主語があって述語がある、起承転結がある、少なくとも一言発する場合でも「かじ(火事)だー」と言語のルールに沿った順序で並んでいる。「じだかー」でも「だじかー」でも「かだじー」でも「じーだか」でも、、、並びが変わるだけで意味は通じなくなる。文字の順序が、即ち始めの文字があって連続した意味を形成する並びに沿って配列される必要がある。連続のための秩序、文法がある。物事の解釈の前提である。と、オギュスタン・ベルクの母国フランスに限らず、アルファベット文字文化、さらに広くは表音文字文化圏での標準的思考のモデルだと。

 

 日本の文化は、この思考のモデルが通じない。自然的、偶然性、同時性から同格、類似、不連続な情況としてしか捉えることができない、(西欧人から捉えると)特異なモデルがある、と。

 つづく・・・

2012-03-25

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─6 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─6 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─6 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅵ 生成の価値の高揚、経路の重視、主体の相対的消滅が当然想定させる非本質主義、場所中心主義(精神的もしくは建築術上の)の基盤となっている近接性に基づく準拠体系、こうしたものすべてが、儀式、外観二つの意味での形式を重要視させる。そこから、実質に対する形式の、人格に対する役割の優位、また、人間関係における顔、視線の決定的機能が生まれる。」

 

 儀式と外観の2つの意味での形式主義が日本文化のモデルである、と。その儀式と外観重視によって「実質に対する形式の、人格に対する役割の優位」という機能が生み出される、と。


 日本人にとっては、概ね納得いくモデリングである。勿論形式よりも実質を、役割ではなく人格で、と思いたいところも多くあり、実際にもそのような行動も無くはないが、仕事の世界、親戚や近隣とのお付き合いの世界では「実質に対する形式の、人格に対する役割の優位」に添った行動となることが多いと思う。(多くの場合、波風を立てたくない、前例に倣えば言い訳できる、時代の空気がそうさせる、といった日和見主義がそこにある)


 前回に振れた東大話法としてあげられた「立場主義」は、概ねこの「形式と役割の重視」という行動主義と同じではないでしょうか。東大話法では「立場主義」の問題点が浮き彫りにされ、原発危機への原因となったと書かれているが、もしそうだとするならば、前回にあげた「プロセス偏重」(このプロセス偏重も形式と役割偏重に起因する行動様式といえる)も合わせ、日本人にとって再考察すべき思考モデルの課題ではないかと思うのです。


 大変重たい課題です。ある面ではどうしようもない課題、見て見ぬ振りをする課題としてこれまでは暗黙知ならぬ暗黙課題として先送りされ続けてきた課題でしょう。おそらく800兆円という途方もない借金を抱えさらに増やし続けている日本と、(予測はできたにもかかわらず耳をフタしてきた結果招いた)数百年に一度の天災によって引き起こされた大災害と原発危機とは、上記の形式と役割の重視、プロセス偏重や立場主義が、即ち日本的なる文化性が直接的ではない(が故にたちが悪い)遠因として働いていると思うのです。


 日本文化が悪い、と天につばを吐いても詮無いこと。課題を発見しつつその解決策をも見いだしたい、との思いから「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読み進めていきたいと思います。

空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)

空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)

2012-03-20

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5─展開 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5─展開 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5─展開 - 思考地図:OVALPLAN

「空間の日本文化」14の結論と東大話法20の規則の照合 その1

「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5にて、プロセス偏重は東大話法のどれか・・・と書いてしまったので、20個の東大話法規則との関係を照合しておきたいと思います。

※東大話法はこちらを参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/東大話法


規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

─東大話法の本の後半に纏まった論として分析的に書いているのがこの「立場主義」で、オギュスタン・ベルクの「プロセス偏重」と共通するのは、立場を重視していることなので本音的には現状にはこだわらない、結果に対しても重きを置いていない、結果としてゴールはあるが必ずしもこのゴールにこだわらない、といった何とも煮え切らない、その結果ゴールに辿り着けなくてもプロセスへの満足度が重視されるので、よくやった!結果はどうあれ満足すべき成果は得られた、等と自己満足の弁で閉じようとするところは、立場主義と同根であると思います。私が君の立場だったら十分な成果を得たと自信を持つだろう、等と結果が出なかったことに対する態のよい言い訳を相手のために考えてあげる、というその相手をおもんばかる態度を由とする習慣が日本社会にはある、と思います。


 この東大話法規則1立場主義とプロセス主義は、どうやら日本人の基底をなすひとつの思考形態ではないかと思うのです。少なくとも私の中には充満していますし、こうした態度を維持し努力する話を聞くと、感動してしまう自分があります。(自分ができない分、他人のこうした態度に感動を覚えます)


 よって、このプロセス偏重と立場主義は東大話法ではなく、日本的思考法1と位置づけ、その功罪について議論されていくことを願っております。特に、空間の日本文化ではプロセス偏重は日本の思考モデルであるとしているだけだが、一般的には美徳的な地位を持つことも多いと思うにもかかわらず、東大話法では原発危機を招いた要因の第一番に据えている、すなわち、改めなければ繰り返す過ちの元凶だとの指摘との関係を、どのように日本人は今後考え行動していくべきなのか、という議論を、広く展開すべきではないかと思う次第です。


 この議論展開は決して立場主義ではなく本音として、展開というプロセスではなく結論としての日本人の思考モデルの(修正、変更に関わらず)共通認識を目標とすべきではないかと思います。その意味で、私なりに「空間の日本文化」14の結論と東大話法20の規則の照合、を進めてみたいと思います。

2012-03-11

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─5 - 思考地図:OVALPLAN

Ⅴ 非対称性と場所中心主義は、空間及び時間(主観と客観を交互に取り替える時間性)への主体の唯一つの視線を排斥し、そのため恒常的な中心点の移り変わりが行われる。時・空間内での安定した準拠点の欠如は、流れ、動き、生成、進行、過程を重んじさせ、目的地よりはその経路を重視させる。建築、都市整備のいくつかの属性──例えば、「奥」性──も、この原理の上に立っている。


 これまでの概念モデルを簡単に捉えておきますと、Ⅰー状況・環境に依存した生活、Ⅱー外部に対する内部へと向かう過剰な傾向、Ⅲー主体の相対的消滅、Ⅳー状況的、個別的、具体的、局地的、偶然性に優位、でした。そしてこのⅤでは「流れ、動き、生成、進行、過程を重んじさせ、目的地よりはその経路を重視させる。」というところが肝です。簡単に言いますとプロセス重視です。重視よりも重き位置づけとしてあるので「プロセス偏重」と言っておいた方が良いかもしれません。


 プロセスに対するこだわりが強い日本の考え方は一見洗練された思考に思えるのですが、優柔不断で煮え切らない、且つ結論に対するこだわりが弱く、結論先送りでも結論への努力はした、というきちんとしたプロセスがされていれば、それで良しとするところ、ここら辺りが日本の思考モデルにとっても大きな課題なのではないかと思います。(恐らく東大話法のどれかだと思います)


 本記述の意図:日本という国、そしてその国を作ってきた日本人について、オギュスタン・ベルクに(今さらではあるが)真摯に学び、後生に申し送りしたいと思っています。

http://www.amazon.co.jp/空間の日本文化-ちくま学芸文庫-オギュスタン-ベルク/dp/4480081232/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1328102206&sr=8-4

2012-03-06

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─4 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─4 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─4 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅳ 周囲、環境への主体の相対的没入は、さらに、状況的なものの普遍的なものに対する優位、個別的なものの一般的なものへの、具体的なものの抽象的なものに対する、局地的なものの全体的なものに対する、偶然性の必然性への、優位によっても表現されている。それはまた、精神的領域についてだけでなく、空間の物質的組織化についても同様である(遠近法とデカルト式もしくは極式座標軸の不人気、非対称への嗜好、局地的場所発生──、外在論理の線に対する内在論理の面の優位、そこから住居区画による街路の占有化)。」

 優位──劣位 

状況的──普遍的

個別的──一般的

具体的──抽象的

局地的──全体的

偶然性──必然性


 これらオギュスタン・ベルクが分析した日本文化の優位性は、先日のブログに書いた「原発危機と東大話法」では、日本独自の社会構造として成長した「立場主義社会」として以下のように表現されています。

 人間ではなく「立場」から構成される「社会」は、一方で立場に伴う義務を果たすための、異常なまでの無私の献身を人間に要請し、また一方で、立場を守るための、異常なまでの利己主義を要請しました。またここから生じるストレスを誤魔化すための果てしない消費は、弱者に対する搾取と自然環境に対する強烈な破壊圧力をも生み出しました。

 こうして「無私の献身」と「利己主義」とが不気味に共存する、ある面で道徳的でありながら、果てしなく不道徳でもある戦後日本社会が形成されたのだ、、、このような社会は、「立場主義社会」と呼ぶのが適当かと思います。

と安冨氏は分析しています。


 立場主義=状況的、個別的、具体的、局地的、偶然性に優位(普遍的、一般的、抽象的、全体的、必然性に劣る)


 実に良く符合していることが分かります。

 ということは、東大話法はけっして東大固有ではなく、広く一般の日本的な文化である、とも言えるわけです。そして安冨氏は、東大話法は原発危機を招いていた元凶である欺瞞話法だと言ってるのですが、それが日本文化なのだとしたら、避けようのない危ない社会として再認識し、欺瞞話法を解除するための施策を国民的レベルで話題にしていく必要がある、と私は思います。

2012-02-23

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「Ⅲ 主体の相対的消滅は、文脈への主体の適応性によってまず表現される──客体化の弱さ、主体/相手の感情移入、非=主語中心性、人称の位相的配置、人称の名詞性(代名詞の欠如)、行動性の緩和、自然的なものの高度な価値付け──。」


 「主体の相対的消滅」といわれてもピンとは来ないのが日本人です。そもそも主体というものが無い、無くはないが薄いというのが日本人だと言ってるし、恐らくそうなんだろうとしか日本人である私には言えない事です。オギュスタン・ベルクのような西欧パラダイム経験を踏まえつつ、日本にどっぷり親しむことで日本人に近いところまで心境が近づいた人だけが気づける、西欧(即ち自分)とは異なる点なのだと思う。西欧人からすると解せない数々の日本的現象、事象を、何故そうなのか、どこに原因があるのかと解析してみたものにしか見えてこない日本的なる世界観、それが結論的に見えたことの三つ目として「主体の相対的消滅」だというのです。


 元々日本における会話では主語は省略されます。否、主語という概念すら無い、といっても過言ではないと思う。家、会社、コミュニティ、仲間、存在しているのはそうした人と人の関係の中での自分であり、自分は=家族であり会社であり仲間との密な関係性の中での集合的存在だと思います。そのことをオギュスタン・ベルクは「主体の相対的消滅」と言ってるのだと思います。何故そういえるかというと「文脈への主体の適応性」すなわち、刻々と変化し動いていく状況(文脈)への適応によって、自分自身も変化していくことが大事だと思っていることで、実際、日和見的に上手く周りと調和していくことが、上手な生き方だという常識が日本社会では存在していると思います。


 よって「主体」は最初から無いのだから「消滅」ではなく、「主体の不成立」の方が正しいのではないかと思います。また「主体の適応性」も西欧パラダイム(恐らく西欧的「主体の自律性」との比較においての捉え方)からの視点であり、「適応」ということを意図したものでもないのが「適応」でしょうから、日本人にとっては「文脈への適応」はしごく当然の自然体であると言えると思います。


 ややこしい?難解?でも、この辺りが日本文化論の根っこのようでもあります。「文脈依存」です。

2012-02-15

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─2 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─2 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─2 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅱ 情況・環境は一方で主体に対し、他方でそこから排除されているもの即ち外部に対し、高く価値付けられる。そこから場所中心─自己中心と言うよりむしろ─の傾向、外部に対する内部の優先という、一般的意味で内に向かう傾向が生まれる(高い人口密度と海外流出人口の少なさ、収穫率の高さと耕地の狭さ、小規模農業構造の執拗な存続、極めて高い土地価格、等々)。」


 ここでは、日本(人)は場所(土地)に対する異常なまでのこだわりについて指摘している。この場所へのこだわりですぐに思い浮かべるのは、全国の都道府県が集う─高校野球、国体、都市対抗、等々─スポーツにおける、極度な地元びいきの応援合戦がある。正直そこまで盛り上がるか〜と毎年正月開けに開催される女子駅伝で、京都を応援している自分を発見し苦笑してしまう。


 こうした地元へのこだわりは、隣国=外部に対する内部へと向かう過剰な傾向としてある、と日本的空間気質を指摘しているのですが、他でも同じ様な内向き指向の日本文化論も多く見受けるのでそうなのだろうと思うが、海外ではそうした生まれた場所、育った場所へのこだわりや、その地に根付いた文化というものが少ないというわけではないだろう。勿論場所を移動しながら生活する放牧型の民族は逆なのは分かるが、農業型の民族だって多くいるのだから、場へのこだわりが強い文化が日本固有のものとは言えない。ただ、その傾向が大陸文化と異なり狭い国土の島国であるが故の、他への逃げ場がないという意味での場へのこだわりが醸成され続けている、と言う事は言えそうだ。

2012-02-10

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 日本という国、そしてその国を作ってきた日本人について、オギュスタン・ベルクに(今さらではあるが)真摯に学び、後生に申し送りしたいと思っています。


 本書で一番感心したのは、日本人による様々な日本論の有名著述を詳細に分析し、曖昧なところを(有名著書に遠慮無く)鋭く指摘したうえで、空間的視点から日本文化を見事にモデリングしているところです。その痛快な論の展開は書籍を読まれることをお薦めしつつ、ここでは「結論─日本的範列」としてまとめられている293頁以降を、自分なりに読んでみたいと思っています。


「Ⅰ 模型(モデル)の基本は、状況・環境に対する高度な価値付けー物的見地からも(居住域の開発強化)、社会的、精神的見地からも(文脈の優先)ーであると思われる。」


 大きく壮大なスケールを持つ物事や、概念で想起する見えざる世界を確認し共有したい時、「模型(モデル)」として捉えてみることは有効です。なぜなら、模型として捉えるには枝葉末節は省略され、ものごとの骨格や柱を中心にした「型」として捉えることが出来るからです。そして著者は「空間の日本文化」というテーマの解答に、(世界地図的には小さくとも生活圏としては十分に広大な)日本という空間とそこにおける日本人の歴史という膨大なコンテクストを、出来るだけシンプルな語りとして表象したいとの思いを込めて「状況・環境に対する高度な価値付け」という基本モデル像を指し示しています。


 状況=時間、環境=空間の視点で捉えると、最近様々なところで書かれている「今・ここ」に通じると考えられます。よって今・ここに対する高度な価値付けとは、その後に「文脈の優先」と有るように、都度変化する時々の気運、空気、場といった実に不安定なところに価値を見いだし、それを共有していくという巷主義的な様相を思い描くことができます。


 こうした動的な浮遊感をフランス人でありながらキャッチできたことに感心する一方、フランス人だからこそ見抜けたのではないか、という考えも同時に浮かんできます。内にいながらでは内のことは分からない、外に出てみてようやく内のことが見えてくるように、外からの視線こそ大事な謎解きの力なのでしょう。


 そして恐らく、(ブログやSNSがこれほどに広がりを見せることにも通じるものが有るでしょうから)拡大するIT環境による情報社会からすると、状況・環境に対する価値付けは日本にとってはごく自然な成り行きだったのではないでしょうか。その意味では、日本に限らず世界でも状況・環境への価値付けが大きいものが有るが、それにもまして日本における状況・環境に対する価値付けは西欧社会から見るとかけ離れたものである、と読み取ることが大事なことのようです。


 いや、日本社会では古来より、現代の情報社会に通じるような状況・環境に依存した生活が営まれてきた、と捉えてみるのも、あながち間違いではないのかもしれません。だとすると、IT世界の広がりを背景とした情報化社会をもっとも心地よく生き抜いているのは、日本人なのかもしれません。何故か腑に落ちるような気がしませんか・・・。



空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)

空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)