Hatena::Groupoval-plan

思考地図:OVALPLAN このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-12-29

[][][][][]「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-2 「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-2 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-2 - 思考地図:OVALPLAN

 オギュスタン・ベルクの「空間の日本文化」を読み続ける内に、日本人社会に共通してある課題に気づきつつある。最も大きな気付きは「準拠点は隣接する」とオギュスタン・ベルクが表現している、日本人の近視眼的行動基準の恐ろしさである。「みんなで渡れば怖くない」「寄らば大樹」「空気を読む」「(丸山眞男の)きょろきょろする日本人」・・・思い当たるキーワードが多く有る。それぞれには納得する背景があるし、その妥当性も頷けるが、それらを支配している日本人意識構造が「準拠点は隣接する」に根ざしたものだとすると,失敗に学ばない愚かな日本人としてこれからも何十年か何百年に一度の大失敗を繰り返していくかも知れない、との危惧をいだく。


 今日の読みとりは,今朝の日経記事に絡めてコメントする。と同時に、この「準拠点は隣接する」の課題は「世論とマスコミと政治」においての現象として観察できるとの思いからタグ付けしておく。


 『日本人は『黙る』『考えない』『思い込む』のどれかに陥っている。これらを正反対の姿勢に改めなければ、適切な技術開発はできない。』 畑村洋太郎 工学院大教授


 震災復興、原発危機、デフレ脱却、,,現在の日本が抱えている課題に対して『黙る』『考えない』『思い込む』の結果が、6割の投票率の中の4割の得票で8割の議席を独占する結果を招き、その結果としての政府を世論調査では55%の支持率である。55%は、民主党政権の鳩山由紀夫(68・7%)、菅直人(57・3%)、野田佳彦(59・9%)の各内閣発足時よりも低い。自民が294議席を獲得した衆院選の結果とは釣り合っていない。と、選挙実態のバラツキを説明せんがためにたかだか数千人の調査を「世論調査」と称して公表することで、あたかも今ここの状況を掌握したかの如くマスコミは報道する。『黙る』『考えない』『思い込む』日本社会は、結果的に肯定され問題は先送りにされる。


 『黙る』『考えない』『思い込む』日本社会に対して畑村氏は「これらを正反対の姿勢に改めなければ、適切な技術開発はできない。』と処方箋を書いている。すなわち「黙らない=発言する」「考えない=考える」「思い込まない=他の考えを探す」ということか? 当たらずとも遠からずではあるが、震災復興、原発危機、デフレ脱却、,,現在の日本が抱えている課題に対して日本人自身が真摯に立ち向かうには、もっと根源的なところでの意識改革が必要なのでは無いだろうか。


 例えば「準拠点は隣接する=隣接するところにしか目を向けない日本人」は、「隣接」を超えた、例えば「距離的な遠隔地」「時間的な未来」「友人や隣人では無い他人」「今ここには無い価値」「長い歴史的な視野」に準拠点を移してみるべきなのではないだろうか・・・という気付きが,今私の中に成長しつつある。

 

 以下参考までに上記日経記事を添付しておく。

 「思い込み」から抜け出せ-2013展望:畑村洋太郎:日経朝刊20121229

 震災復興、デフレ脱却、高齢化への対処:::。新政権の前途には難題が山のようにある。2013年の日本はどうすれば展望が聞けるだろうか。

──原子力発電所事故からどんな教訓を引き出すべきでしょう。

「事故の原因は『長時間の電源喪失は起こらない』との前提で運営していたことに尽きる。『あり得ることは起こる』『思いつきもしない現象も起こる』と考えるべきだ。2000年に米国の原発の専門家にこう言われた。『日本の技術屋は言わないといけないことを言わない。いつか大事故に見舞われるぞ』と」

 狭い国民の視野

──原発政策は衆院選の主要争点でしたが、具体的な議論にはつながりませんでした。「国民の反応は極端で視野が狭くなっている。反対派は事故が起きた途端に『脱原発『放射能ゼロ』に傾斜し、電力需給の安定に気を配れなくなっている。原発維持の側も多くの人が『安全基準さえあれば再稼働できる』と過信している。日本人は『黙る』『考えない』『思い込む』のどれかに陥っている。これらを正反対の姿勢に改めなければ、適切な技術開発はできない。


「原発に関してだげではない。財政難の根っこにあるのも『あり得ることは起こる』と考えない姿勢だ。国際収支が赤字になり、これ以上借金すれば、いずれ利払いがで

きなくなる。最悪のシナリオは米国や中国に金を借りる事態が起こること、日本国債を米中に大量購入されることではないだろうか。消費税率引き上げへの反対意見もわ

かるが、ほかの国に運命を左右される未来図に目をつぶるのも怖いことだ」


──高速道路の天井崩落事故も起きました。

「原発もそうだが、日本が世界一の水準に近いと思える技術はいくつかある。だが、ほかの国に大した技術がないと思うのは倣慢だ。公共投資をみても、中国やインドは鉄道など必要なインフラの技術を猛烈な勢いで磨き上げている。単に金をばらまくのではなく、目標を明確に絞り込んで取り組んでいる」「インドの地下鉄は100秒おきに列車を運行させる目標を立てているという。今の日本でも最短120秒ぐらいかかる。そう遠くない時期に日本は追い越されるところまできている」

「中国やインドの技術者は、自前のノウハウを押しつけようとする日本の姿勢を嫌がっている。彼らが望むのはノウホワイ(}go 巧老町三。どうやるかでなく、なぜゃか。それがわかれば、自国の風土や市場に合った技術を磨き上げられるというわけだ」


 「いい物」に固執

──大手電機メーカーが苦戦するなど国際的な競争力低下は深刻です。

「中国で液目聞や半導体メーカーの担当者に話を聞くと、市場の声に即した製品なら技術は周囲遅れでも構わないという。日本は『いい物を作れば売れる』と自社製品に自信を見せるが、そういう発想に凝り固まっているから逆に市場の求めに応じきれていない面がある。たとえば中国製品が市場をほぼ独占した太陽光パネルはどうか。品質などに問題はあるだろうが、安さを求める消費者に素直に応えた結果にほかならない」

「日本の企業は欧米のまねをして高度成長をたしてきたが、お手本がなくなり迷走している。これからの日本には市場や社会の要求に謙虚に耳をすます姿勢が大切になってくる」

f:id:OVALPLAN:20121229144905j:image

2012-12-03

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-1 「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-1 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタン・ベルクを読む─つづき-1 - 思考地図:OVALPLAN

 オギュスタン・ベルクが長年にわたる日本住まいの末に探し当て、全ての日本人と特に日本文化研究者に向けて言わんとしたであろうところに焦点を当て、「空間の日本文化」の読み解きを深化してみたい。

 「敗戦占領時には、全国民的規模で同じ様な現象が見られた。前日までは最後の一人まで戦う決意を固めていた日本人が一切の抵抗を止め、占領軍の友人に変わったその変わり身の早さに、西欧人は仰天しかつ軽蔑した。・・・戦争が終わったとの天皇の言葉だけで国民が瞬間的に新たな状況へと展開していける、と言う事に対して、西欧人にはどうしても理解できなかった・・・」


 270頁に記されたこの出来事は、オギュスタン・ベルクだけでなく戦後の文化人、知識人、(この事態に異常を感じたが故に取り組み始めた)日本文化研究者、そして多くの日本人論や日本文化研究の書籍に触発された全ての日本人にとっても、共通の疑問であっただろう。そして、その思考実験から導かれた多種多様な概念(考え方)、課題、方策を俯瞰的に考察し、現在に生きる日本人と日本人と交流したいと望む人々に向けた対話のための思考の土俵を、(諸処の概念のさらなる上に)建設的に提供したい、と提出された考察が「空間の日本文化」である。


 この疑問に答えるために書かれたところを以下に抜粋し、深く考察してみたい。

 276頁

 ここでまとめてみよう。隣接性もしくは近接性の準拠──少なくとも日本社会のそれ──の論理は、社会全体の分解を助長すると一見考えられる。しかし、実際にはその逆に、あらゆるレベルで高次元の低次元に対する権威を高揚することによって、階層付けされた体系への社会の組み込みを助長するのである。その際、準拠論理はその定義からして、権威が余りにも遠いものとして知覚されるのを、したがって異論の余地があるように見えることを避ける。同じ一つの社会に、きわめて多様な個別主義への傾向と、意見の一致への傾向が共存し、かつ両方の傾向とも劣らずはっきり現れている、一見矛盾と見える成功の鍵は、まさにこの点に存するように私には思われる。徳川幕府の創り出した中央集権化された封建制という、社会・政治的怪物を説明しうるのはこの論理によってである。後に見るように、日本が一方で己の伝統を少しも損なうことなく保持しながら、あれほど見事に西欧的範列を同化し得たのも、同じくこの論理の働きのおかげである。

むろん現代日本、特に高度成長期以降の日本でも、家族の変貌、風俗の推移につれて父権が弱体化したのは西欧と変わりない。ただ、家モデルは、類似関係を通じて、企業を初めとする多数の制度の中に存続しているのである。日本という、多くの点で母性的な社会(母性社会日本の病理:河合隼雄)も、こうしてその住民たちに、家庭空間から(そしてまた天皇の漸進的消失とともに国民空間からも)消えつつある父を再び見いだすべき多数の状況を提供している。例えば企業は何よりもまず父親の代わりであり、その役割は大きくなる一方である。こうして父権媒介の諸層の均衡関係が編成替えされつつあるとしても、最近25年間の急速な社会変化によってその原理が根本から覆されたとは思われない。

 

 「同じ一つの社会に、きわめて多様な個別主義への傾向と、意見の一致への傾向が共存し、かつ両方の傾向とも劣らずはっきり現れている、一見矛盾と見える成功の鍵は、まさにこの点に存するように私には思われる。」とオギュスタン・ベルク自ら的を射たと確信するかのような言い回しに、注目して見たい。

個別主義への傾向と同時に意見の一致を獲得している社会。個別性と一枚岩的共同体意識が共存していることは、我々日本人にとっては何の不思議もない自然なことのように思えるが、その両面性のモデルにオギュスタン・ベルクは日本文化の構造を見いだしたようだ。この後、個別主義への傾向と意見の一致への傾向の共存から「コンセンサス主義」と「本音と建前」の骨組みについて論を展開し結論へと向かうわけだが、この両面性というやっかいなモデルをどのように捉え日本文化の核として位置づけていくのかに、オギュスタン・ベルクの苦労があったことは想像に難くない。

2012-12-01

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─再度のすすめ 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─再度のすすめ - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─再度のすすめ - 思考地図:OVALPLAN

 日本文化論は西欧文化との対比で語られる場合が多く、ユダヤ教やキリスト教など宗教を背景とした倫理観や生活習慣では当然の如く大きく異なっていて、比較することによって日本文化の特徴が明らかにされる。一方、日本文化の固有性、独自性を、日本という国の風土や習慣、日本語の特徴から語られる場合も多く、その場合は自分たち自身の生活習慣、社会習慣と体験的に照合できるために納得させられる。

 イザヤベンダサンの「日本人とユダヤ人」は前者であり、物事の考え方が180度違う世界が西欧にあることに気付かされ、同時に自分の存在する日本という社会が西欧とは著しく異なるのを知った最初の日本文化論だった。その後、ルース・ベネディクト「菊と刀」、角田忠信「日本人の脳」(余りに短絡した実証に対してオギュスタン・ベルクは手厳しく批判している)によって刺激され、今度は後者に該当する九鬼周造「粋の構造」、梅原猛「仏教の思想」、土居健郎「甘えの構造」など、日本という国の人種、文化、社会、習慣をフィーチャーした本を好んで読むようになっていった。そのお陰で、司馬遼太郎を代表に日本を舞台とした歴史小説を数多く読みながら、日本文化の特徴をかみしめるように楽しんできた、という日本文化に関わる読書歴がある。(どうでも良いことだが、日本文化に目覚める前は小説はSF、音楽はJAZZだったので、「日本人とユダヤ人」といった比較文化論と、当時からブームとなっていく海外渡航体験の─けっして対称的にあるわけではない─対極の「日本文化」に対するカルチャーショックが有ったのだろと思う。この辺りのことは、団塊世代の共通の経歴だったのではないだろうか)

 フランスの地理学者オギュスタン・ベルクの「空間の日本文化」は、この両面、すなわちキリスト教文化との違いと日本的な習慣や言葉の中の独自性の両面を備えた日本文化論となっている。

 今なぜ日本文化論に興味があるのか、と問われたら、なぜこれほどに日本的なるものに心地よさを感じながらも、一方で西欧文化もこよなく愛せるのかが知りたいと思うから、と答える。勿論その裏返しで、なぜこれほどに日本固有の醜さがあり、同時に西欧の汚さに憤りを覚えるのかを知りたい、と思う。

 対比して見えた違いを学べば少しは賢くなれるだろうし、とんでもない過去の行き違い、思い違いによる過ちを繰り返す事もなくなるのではないか、少なくともその兆しをキャッチしアラートを発することぐらいはできるのではないか、との思いもある。

 そうした日本文化をフランス人の視点から分析し展開しているのがこの「空間の日本文化」である。「空間の」となっているが、オギュスタン・ベルクが地理学者でもあることから、日本の文化性を空間軸で捉えることで、抽象論に流されやすい文化という世界観を具体的姿としてイメージさせてくれている。膨大な日本文化論や日本人論を踏まえながら論が展開されており、そして多くの日本文化論の短絡を指摘しながら(その手厳しさにはある種の痛快さと同時にそれそのものが持つ日本的なる曖昧さでもあるというやるせなさも感じるが)日本という社会の行く末をポジティブに育てていくためにも一読、いや、何度も読み込まれることをお奨めする。

2012-11-04

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─14 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─14 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─14 - 思考地図:OVALPLAN

「ⅩⅣ 上記二つの場合(社会的なもの、物質的なもの)、連絡は、意味域が均質空間になっていること(形式主義によって)により樹立される。集団及びその物質的枠組み(居住界隈、村、会社、家屋)の細胞性の代償としては、形式主義に培われた記号の均質性がある。かくて自然(それぞれの集団はそこに根付いている)及び記号(各集団はリーダーという水路を通じてそれを流入させている)両者のメタフォリックな直接性が、社会関係の間接性とバランスを保っている。これは次の図式で示すことができよう。」

 f:id:OVALPLAN:20121104222214j:image


 オギュスタンベルグとしては、この14番目の結論に多くの意味を注ぎ込んでいるのだろうが、残念ながら私にはまだこの結論で書かれている全体を咀嚼することはできていない。おそらく添付された図式の意味も、結論のテクストによって正しく解読できると思うが、前項までの文脈から大方の意味を解説してみたい。

 

 家族や地域、企業も、集団組織においては「内」と「外」の区別に最上位の意識が傾けられている。よって、集団と集団は「外」「外」の関係で、お互いの交流はおろかむしろ排斥する関係となっている。但しその社会的な関係では、お互いの価値観に準拠するが故に相反発し合うこととなる。


 例えば、隣の家は私の家と違って何々を持っているが、その替わり私たちは何々を持っている、という具合にひたすらその差異を意識しているが、結果的には差異以外の大半において同じであることが前提となっている。同じであるが故に些細な差異に意識が集まり、結果的にその小さな差異を最大化する意識へと拡大することになり、そこから小さな差異を土俵にして排斥し合う意識構造が生まれることとなる。


 個々の集団が「内」に向かえば、個性豊かな「個」へと向かうはずなのに、同等の「個」になる理由は、日本の根本的価値が「自然」を基盤にしているからである。(この「自然」指向は「空間の日本文化」の底流である)


 以上が、図式の「社会」レイヤーと「自然」レイヤーの捉え方である。


 次に、図式の「意味域」レイヤーについては、「社会」レイヤーではお互いが排斥し合う集団においても上下方向には解放していて、特に上流の媒介者を通じることによって共通する形式主義=礼儀作法を重んじるが故に、排斥し合う集団が連携することが可能となる、と示されている。


 以上が図式に込められた「空間の日本文化」の最後=ⅩⅣ番目の結論であるが、この結論はあくまでも「日本的範列」として書かれたもので、本分で書かれている内容にはより多くの興味深い日本的なる文化性について書かれている。その日本文化について、さらに読み取りを継続していきたい。


 つづく

2012-09-20

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─13 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─13 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─13 - 思考地図:OVALPLAN

 「空間の日本文化」結論 日本的範例は、残る二つ。


 「ⅩⅢ 要素間の横に向かった排除性のために、媒介(「縁」)が社会的関係の重大な鍵となる。A、B二つの要素は互いに対立しながら、第三項Cを通じて傾斜的に交流し合う。空間の社会的組織化においてこれは、非常にしばしば介在者の存在に訴えるという形で現れる。空間の物質的組織化においては、この原理のため直接的対立、移行よりも、緩衝地帯による包み込みが、したがって境界域(リミナリテ)機能がとりわけ重んじられることになる。」


 媒介=縁は、日本社会の内向き指向だから不可欠となる外部とのリレーションのためのソフトウェアであり、リアルな空間においては「緩衝地帯」が境界域機能として重要な役割を担う、と。


 日中の境界域(例の呼称を書くとサイバー攻撃で改ざんされる恐れがある)が大きな問題となってきているこの時期に合わせたかのような、今回の結論となりました。


 日本社会でよく使われる媒介=縁ソフトウェアとして、稟議書をオギュスタンベルクはあげている。日中の国交においては、恐らく経済交流=企業誘致が大きく貢献してきたことは間違いない。戦後補償問題がくすぶる中での正常化には、政治、文化、経済様々な面で媒介=縁を生み出し活用されてきたが、実空間における媒介=縁である「緩衝地帯」は、従来は台湾であったろう。その台湾は、日本と中国の媒介者としてまさしくソフト/ハード両面の大きな役割を担ってきたが、ここに来て中国国内の経済バランス異常事態の色が濃くなりかけてきたことが引き金となり、問題転移として国境問題へと展開してきている、というのが最近の事情でしょう。緩衝地帯は触れてはいけなかったのであり、先に触れてきたのが中国漁船の体当たり事件だから、日本側も触れるレベルから緩衝地帯を国有化するという手段へとエスカレートしてしまった。


 オギュスタンベルクは仲人のような仲介者を介したコミュニケーションが重要だと書いている。現実社会でも米国や(恐らく)ロシア、フランス、英国などの仲介依頼の使者が飛び交っていることだろう。こうした仲介者を通じたコミュニケーションはもちろんであるが、日本文化の中心人物であるべき政治家に本来の日本文化が分かっていないという嘆かわしい時代でもある、というところに、文化伝承がしにくい現代の新たなる問題が宿してきている、とオギュスタンベルクは忠告している。

2012-08-25

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─12 - 思考地図:OVALPLAN

「ⅩⅡ 社会的要素の上方、もしくは下方への解放は、一方では上に向かっての同一化(個人の集団への、集団の上位集団への同一化。その頂点は国民共同体=国家である)、他方では下に向かっての同一化(文化の自然への同一化、大人の子供を前にしての感情移入)により機能する。同じ同一化が、公的なものの私的なものへの関係においても働く(公的なものは上位のものとして知覚される──それは中央の権力を連想させるから──。しかしまた、公的なものの核心には私的なものが含まれている)。」

 

 「社会的要素の上方、もしくは下方への解放・・・」の前に「上下への解放」の前提となる(前項)「内指向」の日本文化について強く意識しておく必要があります。なぜなら、内指向は外との隔絶が前提にあり、(隣接)外部への解放ができないが故に上方と下方へのエネルギーとして放出される、という文脈があるからです。


 具体的な事例を1つ、、、。私が住む京都の街中は小学校区域単位での自治会としてまとまった活動をしているのですが、小学校というのは明治初頭に始まった学校制度と同時にできていった区域で、あくまでも教育行政区分上の境界だったのです。ですので、区域に住んでいる住民からすると、日常の駅や市場へのアクセスの方が小学校区域との関係よりは密接なわけです。すなわち、街全体の快適で安全なまちづくりを捉えると、小学校区域=自治会を超えて隣接する小学校区域=自治会と連携して捉えた方が合理的なのに、隣接との話し合いは一切行われず、昔からの区域にこだわった自治会運営というのが相変わらずおこなわれています。自治の参考となるのは隣接を超えた離れた場所の自治会活動が参考とされ、けっして隣接自治会が話し合うと言うことはされません。皆さんの周りでも似たようなケースは多くあると思います。


 ところがです、お上=行政からのアドバイスに対しては簡単に受け入れます。むしろ積極的に行政とは連絡を取り合う姿勢が見えます。また、内なる単位である町内会との連携もますます密接になっていきます。(「空間と日本文化」でも町内会の項目で、その内指向の事例として紹介されている)私の住む小学校は既に10年ほど前に統合合併のために廃校となり、今は近隣住民の自治連合会だけが残っているのですが、こどもがいた時よりも組織力が高まる傾向があります。廃校となった跡地利用(廃校という危機)に関しての意識の高まりが、内指向の求心力を高め、その結果として、けっして近隣との連携に向かうのではなく、お上=行政からの指導に従順に従う、という、本項の「上方下方への解放」が実践されたわけです。

 

 かように「内指向」は外(隣接)との交流ではなく、上部=行政=お上=公的な方向へと向かい挙げ句の果ては日本という大血縁関係を結んでいると。一方、下方=下位組織=年下=こどもへの手厚い指導とコミュニケーションが稠密になされ、阿吽の呼吸で一致団結して物事にあたる超効率型集団主義の日本文化が成立しているわけであります。


 競争原理主義の欧米諸国よりも物事の効率性という視点では日本型集団指向は有利だとのこと。日本という国が生まれて以来醸成してきた日本型の「内指向型集団主義」は、明治の開国、日清、日露、といった外部からの圧力に対しては圧倒的に有利に働きました。がしかし、「内指向」エネルギーが(内指向であるが故に)明文化されないままの阿吽の呼吸で太平洋戦争を促してしまい、さらに阿吽の政治であったがために戦争責任さえも阿吽の呼吸で不始末という始末を付けてしまった。その後もなんらその「内指向」を修正することのないまま今日に至る日本がそこに有ります。というのが、オギュスタン・ベルクが捉えた日本なのだと思います。


 そしてさらに「縁」という内指向を飛び越える(これまた西欧的なロジックには当てはまらない)日本的文化が、次なるⅩⅢ項で語られます。内に住む我ら日本人には大事な大事な「ご縁」なのではありますが、、、

2012-08-18

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─11 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─11 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─11 - 思考地図:OVALPLAN

「ⅩⅠ 居住域と社会の相対的均質性は、外側に対する内側の優先と結びつき、そこからあるレベルでは、社会的諸要素がほとんど等しいにもかかわらず(そしてほとんどが等しいが故に)、互いに相容れないことになる。この相互排除性は、社会的諸要素が一般的準拠点に基づくよりはむしろ、それぞれが隣の要素との相違で、偶発的に自らを律し、自己の行動を決定する中に現れる。この排除性は横に向かうが、垂直方向のものではない。それは、それぞれの集団があるレベルで見せる閉鎖状態(横には通じないこと)によって、また別のレベルで見せる開放状態(縦には通じること)によって具体的に現れる。」


 このⅩⅠでも「外部よりも内部への優先の結果、均質性が生まれる」とあった前回と内容的には繰り返している。余程オギュスタンベルクにとっては奇異に映ったのだろう。我々日本人にとっては日常の中にある生活習慣なので、「内部の均質性の維持と外部の排斥」という言葉で表されても、そのこと自体を気付きながら行動しているわけではない。がしかし、一旦そのような図式で外部と内部を俯瞰的に解釈してみると、思い当たるところが多々ある。


 [日本論]ブログで書いた「キョロキョロする日本人」http://oval-plan.g.hatena.ne.jp/OVALPLAN/20100406 も、つまるところ、外部の異変に対して内部の均質性を維持せねばならないとの文化性故に現れる挙動、といえるでしょう。そしてそのキョロキョロの結果現れる次なる変化は、オギュスタンベルクは「別のレベルで見せる開放状態(縦には通じること)」、すなわち上位レイヤーと下位レイヤーへの行動として現れる、といっています。


 その上下方向に関しては次回に述べられている。

2012-07-21

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─10 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─10 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─10 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅹ 内部の外部への優先は、主体の相対的な消滅と一緒になって、物質的空間組織において、外在的空間に対し集団的に適応する空間を、強力に明確化することとなる(野生に対し構築されたもの、周辺に対し家屋)。この明確化は、内側の均質性、外側/内側の対立という二つの姿をとる。第一の姿には、コード化(家屋や生産方式の規格化)と人工化(都市的なものと農村的なものの融合など)が当然含まれ、第二の姿には、排除(乾地農法に対する追放に等しい措置、被差別部落の隠蔽など)が含まれる。」


 外部よりも内部への優先の結果、均質性が生まれ、江戸期に見る美術工芸から日常道具や家屋に至るまでの精緻で美くしい世界が産み出されていったことは、間違いない。


 と同時に(第二の姿として)、その執拗さと同等の隣接と外部への排斥の態度は、度を超したものがある。特に隣接の拒絶は、住居の隣接、会社における組織上の隣接、同期、電車で居合わせた隣の人まで、旧知、新参に関係なくまずは排斥の意識が前提にあり、その上で格別なる出会いなり遭遇、事件によって今度は真逆の同士としての結束が生まれる図は、外部から内部へのダイナミックな移転が認められていることに注目しておきたい。


 この内部同士の異常な結束は、外部への排斥をバネとして使っている分、その結束がはずれることへの恐怖の裏返しであり、ひとたび箍が外れるとその真逆のドラマ、すなわち外部の内部化こそ真なりと価値の大転換が始まってしまう。


 そんな馬鹿な、と思える大逆転を、明治維新で、第二次世界大戦で、そしてつい20年前バブル崩壊で、さらには昨年の原発事故を契機に価値の大転換を体験している日本!・・・誰かが言ってたが、転変地変こそ栄養にする体質が日本人にはあるのかもしれないと、私にも思えてきた。

空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)

空間の日本文化 (ちくま学芸文庫)

2012-06-15

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─9 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─9 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─9 - 思考地図:OVALPLAN

 前回から一ヶ月あいてしまいましたが、前回の-8に繋がった内容です。


「Ⅸ この二つの傾向(構築されたものの形式化と、文化の自然との同化)は、物質的なものに対する社会的なものの関係すべてにわたってみられ、物質的なもの(外包物)と社会的なもの(内容物)の間のたえざる換喩(メトニミー)関係に姿を現している。この事実から、社会的なものは、その具体的な枠組みと同一化する(家屋はそのまま家族であり、農地はそのまま村落共同体である)。この同一化は結果として、社会的な種々の要素をそれぞれの場所に深く根付かせることになる(この点では場所中心主義も参与する)。それと同じ同一化が、社会的なものを生物的なものに結びつけ(集団同士の関係の擬血縁性、コンセンサス)、類似の結果を生む(隣接する集団に対する集団の明確な自己確立、集団中心主義)。」


 「物質的なもの(外包物)と社会的なもの(内容物)の間のたえざる換喩(メトニミー)関係に姿を現している。」

隠喩・換喩・提喩の違いはネットで見て頂くとして、一部を持って全体を指し示す換喩(メトニミー)は、省略化、単純化を推し進め「ひとつのモノで多くのコトを象徴」する。例えば「僕の家では・・・」と言うとき、「家」は家屋という形をさすと同時に家族のことや家庭の風俗習慣全てを包含したものを指し示す。「家」という存在は家族とその生活全般の象徴なのである。象徴として扱われるということは、そのモノには多くの意味や思いが重ねられるということであり、結果的にその象徴は、多くの意味共有域を持つ多義性を容認することになり、その物事に関係する人の分だけ意味の広がりを持つこととなる。ひいては、曖昧で難解さへと繋がっていく可能性があるが、そのこと、すなわち換喩による象徴を日本人が好んで選択してきたということは、どこかに好ましい事という日本人の総意があったから、ということでもある。


 勿論その総意は、「空間の日本文化」で説かれている「農業中心の村社会」という社会構造にとって好都合なコミュニケーション手法だったからである。そして、歴史書によると、庶民も含め万葉の昔から比喩を込めた「和歌」を好んだとのことなので、曖昧さや難解さにもかかわらずモノとコトを象徴で結ぶことを、同じ日本人として好んでいる自分に、なるほどと思うわけです。


 「iPhoneに 家芸とられて もらい型 米国依存は 黒船以来」

 

2012-05-16

[][][][]「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─8 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─8 - 思考地図:OVALPLAN を含むブックマーク はてなブックマーク - 「空間の日本文化」オギュスタンベルクを読む─8 - 思考地図:OVALPLAN

「Ⅷ 自然の重視(主観的)と、居住域への入力の影響の強さ(客観的)の間にはつながりがある。人間の仕事が大地に深く、永続的に刻み込まれ、それによって自然と同一化しているからである。この同化は野生の自然の無視に向かい(広大な森林、その三分の一近くが未開発である)、かくて一方では居住域の内向性が強化され、他方では意味いき(記号圏)へのたえざる訴えかけが触発されることになる。事実。人工化/コード化/排除/省略という同じ原理が、人力の影響の強化、象徴の作成の下に横たわっている。第1の様相に属するのは生産の技術であり(水田耕作の「内に向かっての発展」の効果)、第二の様相に属するのは形式化の技術で(真・行・草)、二つのタイプの技術は造園術において合体している。」

  

 ご存じ「カイゼン」に象徴される技術立国日本のお家芸である改良改善は「水田耕作」に源を発し、野生や未開の外部へと向かわない洗練型自然志向として、生産現場から生活域に至るまでひたすら「内向き」に強化されていく。その非効率さをかえりみることなく「内へと向かう」意識は、日本独自の集団意識とはいえ異常としか思えない、とオギュスタン・ベルクは「空間の日本文化」で様々な事例を紹介している。

 例えば、水田耕作における収穫という意味では耕地の拡大の方が効率が良いのは当たり前なのに(朝鮮半島では山間の開墾ははるかに多く事例が有り、地域的には北海道への開墾は明治以降にしかなされなかったなど)耕作面積は拡大されずに既存の水田の改良改善による収穫がひたすら千年以上も続いてきた、とか、人間の居住域も都市に集中し、国土平地への分散居住はされずに、あたかも楽しんでいるのではないかと思えるほど異常なまでの都市集中による過密な住空間の実態がある、と報告している。何故これほどに、外向きに解決していくことを選択せず、というよりも「拒否」しているという表現の方が相応しいほど「内向き指向」が強いのか。結論はさらに次章以降に書かれているのだが、日本人なら誰でも推察は付く理由である。日本型集団主義。

 

 水田耕作という技術事例と一緒に技術の洗練形式として並行してある「真・行・草」が、象徴的に「造園術」において合体してみることができる、と、もう一つの側面である形式主義の技術を紹介している。「真・行・草」は書道の三書体から派生し、お茶やお花、建築、造園など多様な分野で育まれてきた日本的な美の形式である。

 行書を知ったのは20年ほど前で、達筆な毛筆の年賀状をいただく先輩から行書で有名な王羲之の「蘭亭序」を紹介されたときだった。デザイナーの私は即刻写経ならぬ書写に励んだが、三日坊主で終わった。「真」の楷書よりも粋な崩しの行書を、知ってはいたが改めてその格好良さに惚れた事を思い出す。と同時に「草書」はどうやっても辿り着けないエレガンス=洗練に怖じ気づき、見ない振りをしたことも思い出した。今以て草書は、俵屋宗達に始まる淋派などの鑑賞美術の世界でありつづけている。


 かような経験は多かれ少なかれ50、60にもなればどこかでしているもので、何とはなしに日本の美意識には「真・行・草」の三様があることは知っているが、この「空間の日本文化」で改めて、人口化/コード化/排除/省略に備わる形式の定番的処方箋として紹介され、日本においてはそれほどに普遍性の高い暗黙知なのか、と恐れ入った次第です。そしてデザイナーとして、日本のデザインの三様の洗練を知ることができたが「草的エレガンス」は自分には辿り着けない世界だと、知らせれもした読み取りでした。むむ〜